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人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

法や社会制度、教育と世論の重要性

【人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.3) 追記。

《目次》
(1)人間の行為の究極的目的
 (1.1)苦痛と快楽
 (1.2)苦痛と快楽の量と質
 (1.3)幸福とは何か
 (1.4)平穏と興奮
 (1.5)人類全体への愛情
 (1.6)精神的涵養
 (1.7)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則


(1)人間の行為の究極的目的
 (a)行為の人間の行為の究極的目的である幸福とは何か。その諸要因:(a)苦痛と快楽の量と質,(b)受動的な快楽、能動的な快楽,(c)平穏と興奮,(d)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情,(e)精神的涵養(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)苦痛と快楽
  できる限り苦痛を免れ、できる限り快楽を豊かに享受する。
 (1.2)苦痛と快楽の量と質
  苦痛と快楽は、量と質の両方が考慮される。
 (1.3)幸福とは何か
  幸福とは何か。それは、到達できない目的なのではないか。
  (a)幸福が強い快楽による興奮状態の継続であるとすれば、それは達成不可能である。
  (b)仮にそうだとしても、不幸を避けたり軽減したりすることができる。
  (c)幸福とは、苦痛があっても一時的なものであり、快楽が多く様々にあり、受動的な快楽よりも能動的な快楽のほうが圧倒的に多く、現に生きられている人生以上のものを、もはや期待しないような状態である。

 (1.4)平穏と興奮
  平穏と興奮は、より控えめな幸福の要素の一つである。
  (a)平穏に恵まれていれば、大半の人はごくわずかの快楽で満足できる。
  (b)多くの興奮があれば、大半の人はかなりの量の苦痛を耐えることができる。
  (c)そして、一方が長く続けば、他方への準備が整い、他方への願望が刺激される。
  (d)怠惰が高じて悪習となっている人、また逆に、病的に興奮を求めるようになってしまっている人も、存在はするだろう。

 (1.5)人類全体への愛情
  自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情は、幸福の重要な要因である。
   この世界にある不幸との戦いへの参画は、気高い楽しみを与えるだろう。人類全体の幸福への献身は、自らの幸福を超越し得る。しかし、極めて不完全な社会では、徳自体が与えてくれるストア的な幸福もあり得よう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (a)愛情を欠いており、自分のことしか気にしない人たちは、それなりに幸運な境遇に恵まれていても、十分な快楽を見出さない。なぜなら、死が彼のすべてを失わせるからである。
  (b)一方で、個人的愛情を注ぐ対象となるものを死後に残すような人、とりわけ人類全体に対する関心を持ちながら、人類全体の幸福を喜び不幸を悲しむことができる人は、死の間際でも、人生に対して生き生きとした関心を抱き続ける。
   (b.1)この世界には、さらに是正し改善すべきものが多くある。
    (b.1.1)貧困、病気など、避け難く、未然に防ぐこともできず、緩和することもできないと思われるような、様々な肉体的・精神的苦悩の源泉が存在する。
   (b.2)運命の変転や自分の境遇について失望してしまう原因。
    (b.2.1)甚だしく慎慮が欠けていること。
    (b.2.2)欲が大き過ぎること。
    (b.2.3)悪い、不完全な社会制度のために、自由が認められていないこと。
   (b.3)改善への希望。
    (b.3.1)これら苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろう。
    (b.3.2)貧困は、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって、完全に絶つことができるだろう。
    (b.3.3)病気は、科学の進歩と優れた肉体的・道徳的教育によって、有害な影響を限りなく縮小できるだろう。
   (b.4)自己犠牲とは何か。
    (b.4.1)なぜ、自らの幸福を犠牲にし得るのか。それは、他者の幸福や、世界の幸福の総量を増大、あるいは幸福の何らかの手段への献身だと信じるからである。
    (b.4.2)「目的は、幸福ではなく徳である」は、正しいだろうか。しかし、自らの犠牲によって、他の人々も同じような犠牲を免れ得ると信じていなかったとしたら、その犠牲は払われたであろうか。
    (b.4.3)誰かが、自らの幸福を完全に犠牲にすることによってしか、他の人々の幸福に貢献できないというのは、世界の仕組みがきわめて不完全な状態にあるときだけである。

 (1.6)精神的涵養
  精神的涵養は、幸福の重要な要因である。
  自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や、未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出すことだろう。
 (1.7)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
  (a)意識的に、幸福なしにやっていくことが、到達可能な幸福を実現することについての、最良の見通しを与えてくれる場合がある。「目的は、幸福ではなく徳である」。
  (b)それは、宿命や運命が最悪であっても、それが人を屈服させる力を持っていないと感じさせてくれる。
  (c)その結果、人は人生における災難について、過剰に不安を抱くことがなくなる。
  (d)また、手の届くところにある満足の源泉を、平穏のうちに涵養することができるようになる。
  (e)それは、死をも超越する。

(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)究極的目的が、最大限可能な限り、人類全てにもたらされること。
 (2.2)人類だけでなく、事物の本性が許す限り、感覚を持った生物全てが考慮されること。
 (2.3)自分自身の善と、他の人の善は区別されないこと。
  (a)基本的な考え方。
   (i)あたかも、自分自身が利害関係にない善意ある観察者のように判断すること。
   (ii)人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。
   (iii)自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
  (b)次のような法や社会制度を設計すること。
   (i)あらゆる個人の幸福や利害と、全体の幸福や利害が最大限一致している。
  (c)人間の性格に対して大きな力を持っている教育や世論の力を、次のような目的に用いる。
   (i)自らの幸福と全体の幸福の間には、密接な結びつきがあることを、正しく理解すること。
   (ii)従って、全体の幸福のための行為を消極的にでも積極的にでも実行することが、自らの幸福のために必要であることを、正しく理解すること。
   (iii)全体の幸福に反するような行為は、自らの幸福のためも好ましくないことを、正しく理解すること。
 (2.4)苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。


 「功利主義を攻撃する人がめったに正しく認めようとしてくれないことを私は再び繰り返して言っておくが、何が正しい行為なのかを決める功利主義的基準を構成している幸福とは、行為者自身の幸福ではなく関係者すべての幸福である。自分自身の幸福か他の人々の幸福かを選ぶときには、功利主義は利害関係にない善意ある観察者のように厳密に公平であることを当事者に要求している。ナザレのイエスの黄金律に、私たちは功利性の倫理の完全な精神を読み取る。人にしてもらいたいと思うことを人にしなさいというのと、自分自身を愛するように隣人を愛しなさいというのは、功利主義道徳の理想的極致である。その理想にもっとも早く近づく手段として功利性は次のことを求めるだろう。第一に、法や社会制度があらゆる個人の幸福や(あるいは実際的に言えば)利害をできるかぎり全体の利害と一致させるようなものであること、第二に、人間の性格にたいして大きな力をもっている教育や世論が、自らの幸福と全体の善の間には、とりわけ全体の幸福が求めるような行為を消極的にでも積極的にでも実行することと自らの幸福の間には切ることのできない結びつきがあるということを各人の心に抱かせるためにその力をもちいることである。そうすれば、全体の善に反するような行為を押し通して自らの幸福を得ようと考えることはできなくなるだけでなく、全体の善を増進するという直接的な衝動があらゆる個人にとって行為の習慣的な動機のひとつとなり、それに伴う感情が各人の感情のなかで大きく重要な位置を占めるようになるだろう。功利主義道徳論を非難する人がこのような正しい特徴によってそれを心に思い描くならば、彼らが支持するであろう他の道徳論がもっている長所のうち功利主義道徳論に欠けているものが何なのか、他の倫理体系が促すと考えられている、より美しくより賞賛すべき形での人間本性の発展というのはどのようなものなのか、そして、その体系は功利主義者が利用できないどのような行為の動機にもとづいて指令を実行させるのか、私には分からない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.279-280,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:法,社会制度,教育,世論)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会
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テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

人間以外の動物たちへの配慮

【人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】

(2.3)追記

(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
  人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
    (i.1)快と苦が生み出す諸感情
     (i.1.1)自然な満足感、嫌悪感
     《観点》ある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.2)自己是認、自己非難
     《観点》自分のある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.3)好意と反感
     《観点》他者のある行為が、自分たちの幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
    (i.2)民衆的強制力は、同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
     (i.2.1)行為者Aの行為a
     (i.2.2)行為者B:行為者Aの行為aに対する、好意と反感。
     (i.2.3)行為者Aは、行為者Bの好意に快を感じ、反感に苦痛を感じることができる度合いに応じて、行為者Bの幸福(快)を生み出し、不幸(苦)を減らす方向に促す。

   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。

(出典:wikipedia
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)

 「ベンサムによれば、人間の快苦に配慮することと同じように人間以外の動物の快苦に配慮することも道徳的義務である。ヒューウェル博士はベンサムから引用し、誰もがそれを逆説的な不合理の極みと見なすだろうというきわめて素朴な考えを示しているが、私たちはその賞賛に値するベンサムの文章を引用せざるをえない。

 『ヒンドゥー教やイスラム教においては、人間以外の動物の利益もある程度配慮されているようである。なぜ動物たちの利益は、感受性の違いを考慮に入れた上で、人間の利益と同じくらいの配慮を普遍的には受けてこなかったのだろうか。既存の法律は人間相互の恐怖心の産物であり、理性能力で劣る動物は、人間のように恐怖心という感情を活用する手段を持ち合わせていなかったからである。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対してはいかなる理由も見いだすことはできない。人間以外の動物が、暴君の手による以外には彼らから奪うことのできなかった権利を獲得する日がいつかくるだろう。いつの日か、足の本数、皮膚の毛深さ、あるいは仙骨の先端[尻尾の有無]が、感覚をもっている存在を虐待者の気まぐれに任せる根拠としては不十分であると認められることだろう。何かほかに越えがたい一線を引くようなものがあるだろうか。それは理性能力なのか、あるいはひょっとすると会話能力なのか。しかし、成長した馬や犬は、生後1日や生後1週間、さらには生後1ヵ月の乳児よりも比べものにならないほど理性的で意思疎通のできる動物である。しかし、仮にその正反対のことが事実であったとしても、その事実が何の役に立つのだろうか。問題は理性を働かせることができるかでも、話すことができるかでもなく、苦痛を感じることができるかということなのである。』

 約50年後に成立した動物虐待を禁止する法律ではじめて現れたより優れた道徳を1780年の時点でみごとに予期していたこの文章は、ヒューウェル博士の目には、幸福に基づく道徳論が不合理であることを決定的に証明するものとして映っているのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ヒューウェルの道徳哲学』,集録本:『功利主義論集』,pp.217-219,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:人間以外の動物たちへの配慮)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

ベンサムの道徳的強制力

【ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.4.1)追記。

(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    (i.1)快と苦が生み出す諸感情
     (i.1.1)自然な満足感、嫌悪感
     《観点》ある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.2)自己是認、自己非難
     《観点》自分のある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.3)好意と反感
     《観点》他者のある行為が、自分たちの幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
    (i.2)民衆的強制力は、同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
     (i.2.1)行為者Aの行為a
     (i.2.2)行為者B:行為者Aの行為aに対する、好意と反感。
     (i.2.3)行為者Aは、行為者Bの好意に快を感じ、反感に苦痛を感じることができる度合いに応じて、行為者Bの幸福(快)を生み出し、不幸(苦)を減らす方向に促す。

   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。

 「道徳的観念を前提としている同胞による是認は道徳の基礎にはなりえないというヒューウェル博士の見解は、ベンサムにも功利性の原理にも当てはまらない。ただし、こうした是認が前提にしている道徳的観念は功利性の観念や有害性の観念にほかならないということは的を射ているかもしれない。人類は幸福あるいは不幸を生み出す行為の傾向性を認識する程度に応じて、前者を好み推奨したり後者を忌避し非難したりすると想定することは、仮説を過度に拡大解釈しているわけではない。行為に向けられたこれらの自然な満足感と自然な不安感や嫌悪感が、どのようにして《道徳》感情と呼ばれているものに見られる特殊な性質を帯びるようになったのかは、倫理学の問題ではなく形而上学の問題であり、それにふさわしい場所で論じられるべき問題である。ベンサムはこの問題には関心を持たなかった。彼はそれを他の思想家の手に委ねた。ベンサムにとっては、行為が人間の幸福に与える知覚可能な影響が、理由としても事実としても、ある行為を好んだり別の行為を嫌ったりする強い感情の十分な原因であるということで十分だった。行為者の想像力や自己意識のなかでこれらの感情が共鳴反応することから、自己是認や自己非難のようなより複雑な感情が自然に生じてくる。あるいは、争点となっている問題すべてを避けるために、そのような私たち自身への満足感と不満感が生じてくるとだけ述べておこう。それ以外のすべてのことが否定されるとしても、この点だけは認められるに違いない。最大幸福が道徳の原理であってもそうでなくても、現に人々は自分自身の幸福を望んでおり、したがって自分たちの幸福を増進してくれる他者の行為を好み、自分たちの幸福を明らかに脅かすような行為を嫌悪する。ベンサムが置いたのはこのことだけである。これが認められれば、次はベンサムの言う民衆的強制力と、それに対する行為者の精神の側での反応についてであり、これら二つの作用は、人類が啓発されている度合いに応じて、各人の行為を全体の幸福を増進するような方向に沿わせていく傾向にある。ベンサムは、これ以外には真の道徳はないし、いわゆる道徳感情はその起源や構成要素がどのようなものであったとしても、このような方向のみに作用するように訓練されるべきだと考えていた。よって、ヒューウェル博士はこの理論のなかに非論理的あるいは非整合的な箇所を見出そうとしたが、彼がこの理論を未だ理解していないことを明らかにしただけである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ヒューウェルの道徳哲学』,集録本:『功利主義論集』,pp.215-217,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳的強制力,自己是認,自己非難,好意,反感)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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Author:未来のための哲学講座 編集部
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命題集,哲学,思想パーツ集,コンセプト集,真に拠り所とすべき情報群,事実群,処世術集,忘れ去られた夢や理想の発掘

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