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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (3)情念論

哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (3)情念論

7.情念論
わたしたちは、情念を巧みに操縦し、その引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、情念のすべてから喜びを引き出すような知恵を持つことができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
情念はその本性上すべて善い、その悪用法や過剰を避けるだけでよい。(ルネ・デカルト(1596-1650))
情念は、わたしたちを害したり益したりしうる対象の多様なしかたを反映している。(ルネ・デカルト(1596-1650))

《目次》
7.1〈驚き〉
 7.1.1〈驚き〉の過剰としての〈恐怖〉
 7.1.2 大きいものへの〈驚き〉:〈重視〉
 7.1.3 小さいものへの〈驚き〉:〈軽視〉
 7.1.4 〈善〉または〈悪〉をなしうる自由な原因への〈重視〉:〈崇敬〉
 7.1.5 〈善〉または〈悪〉をなしうる自由な原因への〈軽視〉:〈軽蔑〉
   ※ 〈善〉〈悪〉については、後述する。
7.2〈快〉〈嫌悪〉
 7.2.1〈美〉〈美への愛〉(快)
 7.2.2〈醜〉〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 7.2.3〈広義の美〉〈美への愛〉(快)
 7.2.4〈広義の醜〉〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 7.2.5〈善〉〈善への愛〉
 7.2.6〈悪〉〈悪への憎しみ〉
7.3 わたしたちの状況・行為、他の人たちの状況・行為による〈善〉〈悪〉の感受
 7.3.1 わたしたちの現在の状況による〈善〉と〈悪〉の感受:〈喜び〉〈悲しみ〉
 7.3.2 わたしたちの未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉
 7.3.3 わたしたち自身によって過去なされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:〈内的自己満足〉〈後悔〉
 7.3.4 わたしたち自身によって過去なされた行為や現在のわたしたちに関する、他の人たちの意見による〈善〉と〈悪〉の感受:〈誇り〉〈恥〉
 7.3.5 他の人たちによってなされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:〈好意〉〈感謝〉〈憤慨〉〈怒り〉
 7.3.6 他の人たちの現在の状況や未来に生じる状況による〈善〉と〈悪〉の感受:〈喜び〉〈うらやみ〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉
 7.3.7 その他の〈善〉と〈悪〉の感受:〈倦怠〉〈いやけ〉〈心残り〉〈爽快〉
7.4 〈善〉〈悪〉〈美〉〈醜〉と、情念の関係
7.5 真なる〈善〉〈悪〉、偽なる〈善〉〈悪〉にもとづく情念
7.6 さまざまな〈愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受
 7.6.1 〈美〉と〈美への愛〉(快) (再掲)
 7.6.2 〈広義の美〉と〈美への愛〉(快) (再掲)
 7.6.3 〈善〉と〈善への愛〉 (再掲)
 7.6.4〈欲情の愛〉〈好意の愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
 7.6.5〈所有への愛〉〈対象そのものへの愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
 7.6.6〈愛着〉〈友愛〉〈献身〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
7.7 欲望論
 7.7.1 わたしたちの未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉   (再掲)
 7.7.2〈欲望〉の種類
 7.7.3 〈安心〉〈希望〉〈不安〉〈執着〉〈絶望〉〈恐怖〉
7.8 自由意志論
7.9 徳
 7.9.1 欲望は、真なる認識に従っているか
 7.9.2 私たちに依存しないもの
 7.9.3 私たちにのみ依存するもの、自由意志
 7.9.4 意思決定に付随する情念:〈不決断〉〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉
 7.9.5 過去の意思決定に付随する情念:〈良心の悔恨〉
 7.9.6 徳とは何か?
 7.9.7 徳に伴う情念、知的な〈喜び〉〈高邁〉
 7.9.8 〈高邁〉の情念をもつ人々の関係
 7.9.9 〈高邁〉とは異なる〈高慢〉、正反対の〈卑屈〉

7.1〈驚き〉
「驚き」に不意を打たれ、激しく揺り動かさるとき、そこには既知ではない、想定外の、初めて出会う新しい対象が存在する。驚きが、知らなかったことを学ばせ、記憶にとどめさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
7.1.1〈驚き〉の過剰としての〈恐怖〉
7.1.2 大きいものへの〈驚き〉:〈重視〉
7.1.3 小さいものへの〈驚き〉:〈軽視〉
〈重視〉と〈軽視〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
7.1.4 〈善〉または〈悪〉をなしうる自由な原因への〈重視〉:〈崇敬〉
7.1.5 〈善〉または〈悪〉をなしうる自由な原因への〈軽視〉:〈軽蔑〉
〈崇敬〉と〈軽蔑〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ※ 〈善〉〈悪〉については、後述する。
崇敬とは、愛や献身とは異なり、善または悪をなしうる驚くべき大きな自由原因に対し、その対象から好意を得ようと努め何らかの不安を持って、その対象に服従しようとする、精神の傾向だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ※ 〈愛〉〈献身〉については、後述する。

7.2〈快〉〈嫌悪〉
美、広義の美、美への愛(快)、醜、広義の醜、醜への憎しみ(嫌悪)、善、善への愛、悪、悪への憎しみ。快と嫌悪の情念は、他の種類の愛や憎しみより、通例いっそう強烈であり、また欺くこともある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.2.1〈美〉〈美への愛〉(快)
 視覚で与えられた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈美〉であり、この快の情動を、〈美への愛〉という。快を感じさせるすべてのものが〈美〉であるわけではない。「それらはふつう、真理性がより少ない。したがって、あらゆる情念のうちで、最も欺くもの、最も注意深く控えるべきものは、これらの情念である。」情動と〈美〉とのこの関係性は、以下、情動と〈醜〉、〈善〉、〈悪〉との関係においても同様である。快と嫌悪の情念は、他の種類の愛や憎しみより、通例いっそう強烈であることだ。なぜなら、感覚が表象して精神にやってくるものは、理性が表象するものよりも強く精神を刺激するからである。

7.2.2〈醜〉〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 視覚で与えられた対象に「嫌悪」ないし「嫌忌」を感じるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。

7.2.3〈広義の美〉〈美への愛〉(快)
 ※〈特殊感覚〉のうち聴覚、嗅覚、味覚、平衡覚、〈表在性感覚〉(皮膚の触覚、圧覚、痛覚、温覚)、〈深部感覚〉(筋、腱、骨膜、関節の感覚)、〈内臓感覚〉(空腹感、満腹感、口渇感、悪心、尿意、便意、内臓痛など)、「精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想」によって、快の情動がもたらされる場合。

7.2.4〈広義の醜〉〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 ※7.2.3と同様。

7.2.5〈善〉〈善への愛〉
 意志に依存するいっさいの想像、思考や理性がとらえた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈善〉であり、この快の情動を、〈善への愛〉という。快を感じさせるすべてのものが〈善〉であるわけではない。

7.2.6〈悪〉〈悪への憎しみ〉
 意志に依存するいっさいの想像、思考や理性がとらえた対象に「嫌悪」ないし「嫌忌」を感じるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。

7.3わたしたちの状況・行為、他の人たちの状況・行為による〈善〉〈悪〉の感受
7.3.1 わたしたちの現在の状況による〈善〉と〈悪〉の感受:〈喜び〉〈悲しみ〉
〈喜び〉〈悲しみ〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 わたしたちの現在の状況が「喜び」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。また、「悲しみ」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。

7.3.2 わたしたちの未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉
〈欲望〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 わたしたち自身の現在の状況が、「喜び」を感じさせるとき、未来においてもそれを保存しようと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の保存の欲望
 わたしたち自身の現在の状況が、「悲しみ」を感じさせるとき、未来においてはそれを無くそうと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の不在の欲望、改善の欲望
 わたしたち自身の予測される未来が、避けるべき未来として「欲望」されるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の回避の欲望
 わたしたち自身のめざすべき未来が、新たな未来の獲得として「欲望」されるとき、このめざすべき未来には私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の獲得の欲望

7.3.3 わたしたち自身によって過去なされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:〈内的自己満足〉〈後悔〉
〈内的自己満足〉〈後悔〉、後悔の効用(ルネ・デカルト(1596-1650))
 意志に依存する想像、思考や理性がとらえた、わたしたち自身によって過去なされたことが、「内的自己満足」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。また、わたしたち自身によって過去なされたことが、「後悔」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。

7.3.4 わたしたち自身によって過去なされた行為や現在のわたしたちに関する、他の人たちの意見による〈善〉と〈悪〉の感受:〈誇り〉〈恥〉
〈誇り〉〈恥〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 わたしたち自身によって過去なされたことについての、または現在のわたしたち自身についての、他の人たちが持ちうる意見を考えるときに「誇り」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。また、他の人たちが持ちうる意見を考えるときに「恥」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。
誇りは希望によって徳へ促し、恥は不安によって徳へ促す。また仮に、真の善・悪でなくとも、世間の人たちの非難、賞賛は十分に考慮すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.3.5 他の人たちによってなされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:〈好意〉〈感謝〉〈憤慨〉〈怒り〉
〈好意〉〈感謝〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
〈憤慨〉〈怒り〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 意志に依存する想像、思考や理性がとらえた、他の人たちによってなされた行為が、「好意」を感じさせるとき、またその行為がわたしたちに対してなされ「感謝」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。
 意志に依存する想像、思考や理性がとらえた、他の人たちによってなされた行為が、「憤慨」を感じさせるとき、またその行為がわたしたちに対してなされ「怒り」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。
怒りの効用、および怒りの治療法(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.3.6 他の人たちの現在の状況や未来に生じる状況による〈善〉と〈悪〉の感受:〈喜び〉〈うらやみ〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉
〈喜び〉〈うらやみ〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 他の人たちの現在の状況や未来に生じる状況が「喜び」や「うらやみ」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。この〈善〉が、その人たちにふさわしいか、ふさわしくないかに応じて、「喜び」または「うらやみ」を感じる。
 また、「笑いと嘲り」や「憐れみ」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。この〈悪〉が、その人たちにふさわしいか、ふさわしくないかに応じて、「笑いと嘲り」または「憐れみ」を感じる。

7.3.7 その他の〈善〉と〈悪〉の感受:〈倦怠〉〈いやけ〉〈心残り〉〈爽快〉
〈倦怠〉〈いやけ〉〈心残り〉〈爽快〉(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.4〈善〉〈悪〉〈美〉〈醜〉と、情念の関係
善・悪、美・醜には真・偽の区別があり、経験と理性を用いて認識することができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

問題:(1)善を完全に知るには、無限といえるほどの知識が必要ではないか。(2)善の評価には、他の人の有益性も考慮すべきか。(3)他人の有益性の考慮がその人の性向だとしたら、違う人には違う「善」が完全だと承認させるのではないか。(エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(1618-1680))

(出典:wikipedia
解答:(1)自己の傾向性に多くを任せ、自己の良心を満足させれば十分である。(2)この世界と個人の真実を知れば、全体の共通の善も認識できる。(3)仮に自己利益の考慮のみでも、思慮を用いて行為すれば共通の善も実現される。但し、道徳が腐敗していない時代に限る。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.5 真なる〈善〉〈悪〉、偽なる〈善〉〈悪〉にもとづく情念
自分に欠けている真理を知ることが、悲しみをもたらし不利益であったとしても、それを知らないことよりもより大きな完全性である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.5.1 真なる〈善〉への〈愛〉〈喜び〉〈欲望〉〈内的自己満足〉〈誇り〉〈好意〉〈感謝〉〈喜び〉〈うらやみ〉、真なる〈美〉による〈快〉
善への愛と悪への憎しみが、真の認識にもとづくとき、愛は憎しみよりも比較にならないほど善い。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.5.2 真なる〈悪〉への〈憎しみ〉〈悲しみ〉〈欲望〉〈後悔〉〈恥〉〈憤慨〉〈怒り〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉、真なる〈醜〉による〈嫌悪〉
悲しみと憎しみは、喜びと愛よりも不可欠である。なぜなら、害を斥けるほうが、より完全性を加えてくれるものを獲得するよりも、いっそう重要だからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))
悪への憎しみは、真の認識に基づくときでも、やはり必ず有害である。なぜなら、この場合でも善への愛より行為することがつねに可能であるし、人における悪は善と結合しているからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.5.3 偽なる〈善〉への〈愛〉〈喜び〉〈欲望〉〈内的自己満足〉〈誇り〉〈好意〉〈感謝〉〈喜び〉〈うらやみ〉、偽なる〈美〉による〈快〉
不十分な根拠にもとづく場合であっても、喜びや愛は、悲しみや憎しみよりも望ましい。しかし、偽なる善への愛は、害をなしうるものへ、わたしたちを結びつけてしまう。(ルネ・デカルト(1596-1650))
情念が、欲望を介して行動や生活態度を導く場合には、原因が誤りである情念はすべて有害である。特に、偽なる喜びは、偽なる悲しみよりも有害である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.5.4 偽なる〈悪〉への〈憎しみ〉〈悲しみ〉〈欲望〉〈後悔〉〈恥〉〈憤慨〉〈怒り〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉、偽なる〈醜〉による〈嫌悪〉

7.6 さまざまな〈愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受
7.6.1〈美〉〈美への愛〉(快) (再掲)
 視覚で与えられた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈美〉であり、この快の情動を、〈美への愛〉という。

7.6.2〈広義の美〉〈美への愛〉(快) (再掲)
 ※〈特殊感覚〉のうち聴覚、嗅覚、味覚、平衡覚、〈表在性感覚〉(皮膚の触覚、圧覚、痛覚、温覚)、〈深部感覚〉(筋、腱、骨膜、関節の感覚)、〈内臓感覚〉(空腹感、満腹感、口渇感、悪心、尿意、便意、内臓痛など)、「精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想」によって、快の情動がもたらされる場合。

7.6.3〈善〉〈善への愛〉 (再掲)
 意志に依存するいっさいの想像、思考や理性がとらえた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈善〉であり、この快の情動を、〈善への愛〉という。

7.6.4〈欲情の愛〉〈好意の愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
〈欲情の愛〉〈好意の愛〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ある対象に「欲望」を感じるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈美〉〈広義の美〉〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。
 ある対象に「好意」を感じ、その対象のために〈善〉を意志することを促されるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。

7.6.5〈所有への愛〉〈対象そのものへの愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
〈所有への愛〉〈対象そのものへの愛〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ある対象を「所有したい」と感じるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈美〉〈広義の美〉〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、野心家が求める栄誉、主銭奴が求める金銭、酒飲みが求める酒、獣的な者が求める女。
 ある対象を第二の自己自身と考えて、その対象にとっての〈善〉を自分の〈善〉のごとく求めるとき、あるいはそれ以上の気遣いをもって求めるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、有徳な人にとっての友人、よき父にとっての子供たち。

7.6.6〈愛着〉〈友愛〉〈献身〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
〈愛着〉〈友愛〉〈献身〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ある対象に「愛着」を感じるとき、それは、自分以下に評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈美〉〈広義の美〉〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、一つの花、一羽の鳥、一頭の馬。
 ある対象に「友愛」を感じるとき、それは、自分と同等に評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、自分が真にけだかく高邁な精神を持つと考え、また仮に、相手が不完全であると考えても、その相手に対してきわめて完全な友愛を持ちえないことはない。
 ある対象に「献身」を感じるとき、それは、自分よりも高く評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、神に対して、ある国に対して、ある個人に対して、ある君主に対して、ある都市に対して。

7.7 欲望論
7.7.1 わたしたちの未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉   (再掲)
〈欲望〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 わたしたち自身の現在の状況が、「喜び」を感じさせるとき、未来においてもそれを保存しようと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の保存の欲望
 わたしたち自身の現在の状況が、「悲しみ」を感じさせるとき、未来においてはそれを無くそうと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の不在の欲望、改善の欲望
 わたしたち自身の予測される未来が、避けるべき未来として「欲望」されるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の回避の欲望
 わたしたち自身のめざすべき未来が、新たな未来の獲得として「欲望」されるとき、このめざすべき未来には私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の獲得の欲望

7.7.2 〈欲望〉の種類
〈欲望〉の種類は、〈愛〉や〈憎しみ〉の種類の数だけある。そして最も注目すべき最強の〈欲望〉は、〈快〉と〈嫌悪〉から生じる〈欲望〉である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.7.3 〈安心〉〈希望〉〈不安〉〈執着〉〈絶望〉〈恐怖〉
善の獲得、悪の回避等が可能であると考えただけで、〈欲望〉がそそられる。そして、実現の見込みの大きさに応じて、次の情動が生じる:〈安心〉〈希望〉〈不安〉〈執着〉〈絶望〉。(ルネ・デカルト(1596-1650))
・不安の過剰が〈恐怖〉の一種

7.8 自由意志論
認識の欠陥による不決定な状態は、程度の低い自由である。また、真と善を明晰に見たときの躊躇のない判断・選択は自由を減少させるものではない。悟性には到達し難い一層広い範囲にまで、意志は及び得る。これが自由意志であり、誤りと罪の原因でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
悟性の及ぶ範囲を広げようとすることも、また、意志に違いない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
意志の自由は、確かにある。これはまさに、完全に確実ではないことを信ずるのを拒み得る自由が、我々のうちにあることを経験したときに、自明かつ判然と示された。(ルネ・デカルト(1596-1650))
しかしながら、私が自分の意志により選択するように思えることも、これがこの全宇宙の一部であるのならば、この宇宙を支配する法則によって、あらかじめ予定されていたものに違いない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
未解決問題:我々の精神が有限であるのに対して、この宇宙を支配する諸法則はあまりに深遠で知りがたく、いかにして人間の自由な行為が、未決定に残されるかを、未だ明快には理解することができていない。しかし、この自由は確かに経験される。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9
7.9.1 欲望は、真なる認識に従っているか
欲望の統御:欲望は、真なる認識に従っているか。また、私たちに依存しているものと、依存していないものが、よく区別できているか。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.2 私たちに依存しないもの
まったく私たちに依存しないものについては、それれがいかに善くても、情熱的に欲してはならない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じるとき、これは偶然的運であり、知性の誤りから生じただけの幻なのである。なぜなら摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、私たちは原因のすべてを知り尽くすことはできないからである。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.3 私たちにのみ依存するもの、自由意志
永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。私たちにのみ依存する部分に欲望を限定し、理性が認識できた最善を尽くすこと。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.4 意思決定に付随する情念:〈不決断〉〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉
わたしたちに依存する行為の手段選択の困難から〈不決断〉、実現における困難さに対して、実現しようとする確固とした意志の強さに応じて、〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉の情念が生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
不決断の効用、および過剰な不決断に対する治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))
臆病の効用、および臆病の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))
恐怖の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.5 過去の意思決定に付随する情念:〈良心の悔恨〉
〈不決断〉が取り除かれないうちに何かの行動を決した場合、そこから〈良心の悔恨〉が生まれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.6 徳とは何か?
自由意志にのみ依存する善きことをなすのが、徳という欲望である。これは、私たちに依存するものであるゆえに、必ず成果をもたらす。(ルネ・デカルト(1596-1650))
人間は、自由意志により自分の行為の創造者となり、賞賛に値するその行為によって、人間における最高の完全性に至る。(ルネ・デカルト(1596-1650))
わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、これだけが、自分を重視する唯一の正しい理由である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
徳とは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。この習性は、思考や教育から生み出される。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.7 徳に伴う情念、知的な〈喜び〉〈高邁〉
不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするときに感じるさまざまな情念は、私たちに、知的な喜びともいえる快感を経験させる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
私たちが、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足を、つねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ精神は、みずからの完全性を認識させられ、その混乱は精神の喜びを増す。(ルネ・デカルト(1596-1650))
自ら最善と判断することを実行する確固とした決意と、この自由意志のみが真に自己に属しており、正当な賞賛・非難の理由であるとの認識が、自己を重視するようにさせる真の高邁の情念を感じさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.8 〈高邁〉の情念をもつ人々の関係
高邁の情念をもつ人々は、善き意志という点で等しく、それ以外の美点で異なっていても過大に劣っているとか優れていると考えることはない。また、犯された過ちも認識の欠如によると考えて許そうとする。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.9 〈高邁〉とは異なる〈高慢〉、正反対の〈卑屈〉
自由意志以外のすべての善、例えば才能、美、富、名誉などによって、自分自身を過分に評価してうぬぼれる人たちは、真の高邁をもたず、ただ高慢をもつだけだ。高慢は、つねにきわめて悪い。(ルネ・デカルト(1596-1650))
自分は決断力がなく、自由意志の全面的な行使能力がないと考えるのが、卑屈すなわち悪しき謙虚であり、高邁の正反対である。(ルネ・デカルト(1596-1650))


(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論

6.認識論
6.1 認識するわれわれ
 ・ 最初に、精神に生来具わっている確実なものをまず見いだし、次には、認識とは何であるか、それはどこまで及びうるかを探究する必要がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 認識するわれわれと、認識さるべき物自身。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 (以下、5.1の再掲)
 5.1 意志のすべてが精神の能動である。
 5.1.1 精神そのもののうちに終結する精神の能動
  ・ 意志のひとつとして、精神そのもののうちに終結する精神の能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  ・ 認識力は、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけるときは認知と呼ばれ、記憶をもとにした想像力だけに働きかけるときは想起と呼ばれ、新たな形をつくるために想像力に働きかけるときは想像と呼ばれ、独りで働くときは理解(純粋悟性)と呼ばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 5.1.1.1 「見る」とか「触れる」等の認知とは
  認識力が、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけること。
 5.1.1.2 記憶の「想起」とは
  認識力が、記憶をもとにした想像力だけに働きかけること。
 5.1.1.3 「想像する」とか「表象する」こととは
  認識力が、新たな形をつくるために想像力に働きかけること。
  (例)存在しない何かを想像する。
  ・ 存在しない何かを想像しようと努める場合、また、可知的なだけで想像不可能なものを考えようと努める場合、こうしたものについての精神の知覚も主として、それらを精神に知覚させる意志による。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  (例)詩人は、精神的なものを形象化するために、想像力を用いる。
  ・ 悟性は精神的なものを形象化するために、風や光などのようなある種の感覚的物体も、用いることができる。これは詩人たちの手法だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 5.1.1.4 「理解する」こと(純粋悟性)とは
  認識力が、独りで働くこと。
 5.1.1.4.1 悟性はいかにして、想像力、感覚、記憶から助けられ、あるいは妨げられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 5.1.1.4.2 悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 5.1.1.4.3 問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。次に紙の上で、記号をもって解決を見出すことで、当初の問題の解を得る。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  (例)可知的なだけで想像不可能なものを考える。
  (例)捨象、抽象
  (例)観念を表現する物自体(モデル)
  (例)物のある省略された形(記号)
  (例)問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。
 5.1.1.4.4 認識に関係させて考察するのは、事実上存在するものとしてのそれらについて語るとは、異なった仕方でなすべきである。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 5.1.1.4.5 悟性の充分に直感しえぬ何ものかは、その困難自体の本性による場合もあるし、人間という身分がそれを妨げるがゆえである場合もある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 5.1.1.4.6 (補足説明)眼の前の蜜蝋は、確かに、ただ単に精神の洞観と言えるようなものとして、明晰かつ判明に現われている。(参照:蜜蝋の例)このような認知の働きは、認識力が想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけることによるもので、精神の能動(意志)の一つである。(参照:認知、想起、想像、純粋悟性)これは確かに、私が「事実上存在するもの」の認識に迫る一つの方法である。この同じ蜜蝋を、多数の化学物質の複雑な混合物として表現したとすれば、これは純粋悟性による一つの記述である。あるいはこの蜜蝋を、形と質量を持った物理的な物体として理解することもできよう。しかし注意すべきは、このように純粋悟性により理解された蜜蝋は、「事実上存在するもの」とは、もはや異なるものであり、記号やモデルに過ぎない。では、単純なものなら、存在そのものに迫れるだろうか。一個の電子なら、それも可能であろう。しかし、眼の前のたった一滴の水といえども、それを「事実上存在するもの」として記述することはできない。

(蜜蝋 出典:wikipedia
 5.1.1.4.7 人間に知られ得るものは、論拠から論拠への長い論理の鎖で、連続し合っているのであろう。そして、そこに至るための四つの教則は、(1)明証的に真、および明晰かつ判明な現前、(2)分析と分割、(3)総合と演繹、(4)枚挙による再検査である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
(1)明証的に真、および明晰かつ判明な現前
(2)分析と分割
(3)総合と演繹
(4)枚挙による再検査
 5.1.1.4.8 「我々がどんなものの認識にも到達し得ない」ということを否定する限り、我々が、我々の本性の創造者によって欺かれているかもしれないということは、否定される。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))
 5.1.1.4.9 人間は自然の一部分であって他の諸部分と密接に結合している。だから、もしこの自然がいまとは異なった仕方で創造されていたとしたら、我々の本性もまた、それら創造された事物を理解し得るようなものに創られていたことであろう。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

(出典:wikipedia

 5.1.2 身体において終結する精神の能動(運動、行動)
  ・ 意志のひとつとして、身体において終結する能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  ・ 想像が、多数のさまざまな運動の原因となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  ・ デカルトの第二格率:日常の生活行動において最も真実な意見が分からないときには、蓋然性の最も高い意見に従うこと。そして、薄弱な理由のゆえに自らのこの決定を変えてはならない。志を貫き行動することによって、真偽の見極めと軌道修正も可能となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

6.2 認識さるべき物自身
 ・ いかなる事においても発見せらるべき真理はただ一つしかないのであって、その真理を発見しうる人はいかなる人にもせよ、そのものについては人の知りうるかぎりを知るのである。(ルネ・デカルト(1596-1650))

6.2.1 おのずからしてわれらに明らかであるもの
 ・ おのずからしてわれらに明らかであるもの。(ルネ・デカルト(1596-1650))
(以下、2~5の再掲 要約)
  2.私は存在する
   人間精神が何であるか。
  3.私でないものが、存在する
  4.精神と身体
   身体は何であるか。
   身体は精神によっていかに形成されるか。
  5.私(精神)のなかに見出されるもの
   この複合物(人間)全体において、事物を認識するに役立つ能力はいったい何であるか。
   それらの一々はいかなる働きをするか。
   5.1 意志のすべてが精神の能動である。
   5.1.1 精神そのもののうちに終結する精神の能動
   5.1.2 身体において終結する精神の能動(運動、行動)
   5.2 あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動である。
   5.2.1 身体を原因とする知覚
   5.2.1.1 外部感覚
   5.2.1.2 共通感覚
   5.2.1.3 想像力、記憶
   5.2.1.4 自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様
   5.2.1.5 身体ないしその一部に関係づける知覚としての、飢え、渇き、その他の自然的欲求
   5.2.1.6 精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想
      (広い意味では、情念の一種)
   5.2.2 精神を原因とする知覚
   5.2.2.1 意志についての知覚
   5.2.2.2 意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚
   5.2.3 精神だけに関係づけられる知覚(情念)
   (身体を原因とする知覚や、精神を原因とする知覚を、原因とする。)

6.2.2 いかにしてあるものが他のものから認識せられるか
 ・ いかにしてあるものが他のものから認識せられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))
6.2.2.1 単純なる事物の概念
   (単純本質、すべてそれ自身によって知られるもの)
   (悟性が、事物を直感し認識する能力によって知られるもの)
   ・ 悟性にとって単純なる事物には、純粋に悟性的なもの、純粋に物質的なもの、共通的なものがある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
   ・ 悟性が直感し、真と認識するところの単純本質は、すべてそれ自身によって真である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
6.2.2.1.1 純粋に悟性的なもの
     認識とは何であるか。
     疑いとは何であるか。
     意志の働きとは何であるか。
6.2.2.1.2 純粋に物質的なもの
     形、延長、運動など。
6.2.2.1.3 共通的なもの
     共通概念(公理):他の諸々の単純本質を相互に結合する鎖
     存在、統一、持続など。
6.2.2.2 単純なる事物の概念から複合せられた概念
  (悟性が、肯定あるいは否定の判断を下すところの能力によって知られるもの)
  ・ 単純本質は、必然的にか偶然的にか結合される。単純本質と、これらの混合または複合のほかに、われらは何ものをも理解できない。複合的と呼ばれる本質は、経験することによってか、または、われわれ自身が複合することによって認識される。この複合は、衝動によるか、推測によるか、または演繹による。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    単純本質の必然的結合
     (例)形と延長は、必然的に結合されている。
     (例)運動と持続、時間は、必然的に結合されている。
    単純本質の偶然的結合
    経験によって知られる複合的本質
     感覚によって知覚するすべてのもの
     一般に悟性に現れる一切のもの
     他人から聴くところのすべてのもの
     (例)最も聡明な人たちが実践上では一般に承認する最も穏健な意見
     (例)国の法律および慣習
     (例)私を幼時から育ててきた宗教
     ・ デカルトの第一格率:理性による判断が決意を鈍らせ不決断に陥らせるような場合には、私を育ててきた宗教、聡明な人たちの穏健な意見、国の法律、慣習に服従することで、日々の生活をできるだけ幸福に維持すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    悟性が複合した複合的本質
    衝動により得られた複合的本質
    推測により得られた複合的本質
    演繹により得られた複合的本質

6.2.3 各々の物からいかなる事柄が演繹されるか
 ・ 言葉から物を、結果から原因を、原因から結果を、似たものから似たものを、部分から部分または全体そのものを、引き出す。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  言葉から物を引き出す。(言葉の不明瞭さに困難が存する場合)
  結果から原因を引き出す。(それが何であるか、それが存在するか否かを探る。)
  似たものから似たものを引き出す。(類推)
  部分から部分を引き出す。
  部分から全体そのものを引き出す。
  原因から結果を引き出す。(演繹)
 ・ 哲学とは知恵の探究、人間の知り得るすべての事物の完全な知識の探究を意味し、生活の思慮、健康の維持、技術の発見にも及ぶ。これは(1)人間精神が把握できる明白かつ自証的な真理と、(2)原因、原理に基づく演繹過程を基礎とし、単なる「処世の才能」ではない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学であり、これら諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳にまで至る。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 哲学とは、真偽を識別し、この人生を導いてくれるようなものだ。自分の人生に大きな影響をもつ、この世間という大きな書物のうちで経験する様々な事物や事件のなかでこそ、私は、多くの真理に出会うことができよう。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ あらゆる学問は人間的知恵にほかならず、対象の相違によって諸々の学問に細分化して研究すべきだと思い込んだのは誤りである。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ すべての学問は相互に結合し、互いに他に依存しているから、事物の真理を探究しようと欲するなら、どれかただ一つの学問を選んではならない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ デカルトの第三格率:運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めること。(ルネ・デカルト(1596-1650))


(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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(出典:wikipedia
アントワーヌ・アルノー(1612-1694)


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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報

 ご紹介したルネ・デカルト(1596-1650)の基本命題集を、下記に一覧化しておきましょう。

すべての諸学の基礎、その真理性を疑い得ないようなもの(ルネ・デカルト(1596-1650))

1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
1.1 もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、断乎として偽なるものに同意しないように用心することは、私の力のうちにある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
1.2 私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
1.3 哲学者たちは、最も単純で自明的なことを、論理学的な定義によって、説明しようと試みた点で誤りを犯している。(ルネ・デカルト(1596-1650))
1.4 概念をよく区別し、それが属しているものにのみ帰属させること。ある困難な問題を、それに属していない概念によって説明しようとするとき、われわれは必ず間違う。(ルネ・デカルト(1596-1650))
1.5 私は、私の推論の基礎として、何ものもそれ以上に識られているものはありえない程に、私に識られているところの私自身の存在を、使用することを選んだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

2.私は存在する
2.1 疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
2.2 【無意識について】
精神のうちには、精神が意識してはいない多くのものがありうるのではないか。(アントワーヌ・アルノー(1612-1694))
2.3 およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 一見して異なるレベルの概念で説明しているようにも思われるかもしれないが、アルノーの指摘に対して、あえて理解しやすいように解答したものである。上記命題の正確な意味は、精神と身体、受動と能動の概念の理解において、明確となる。また、この命題は「無意識」を使用する哲学的(もしくは科学的)記述に対するひとつの注意である。その議論が、真に科学的なものなのか、曖昧で概略的なおしゃべりなのかを判断するときの、ひとつの拠り所となる命題である。
2.4 この蜜蝋は、いったい何か。これは確かに、ただ単に精神の洞観と言えるようなものとして、明晰かつ判明に現われている。対象として特定し、言葉で捉えられたものには、すでに不完全で不分明なものが混入している。(ルネ・デカルト(1596-1650))
2.5 いま眼の前にあるこの蜜蝋だけでなく、およそすべてのことに対して、それがいっそう判明に認識されれば、それは、私自身が何であるかの認識でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

3.私でないものが、存在する
3.1 私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))
3.2 補足説明
〈このすべて〉Aが、〈わたし〉Aである。
〈わたし〉Aは、存在する。
〈わたし〉Aは、〈精神〉Aである。
〈この蜜蝋〉は〈わたし〉のなかにある〈観念〉であり、〈わたし〉のなかに存在する。〈この蜜蝋〉が〈観念〉としてではなく、〈本当に存在するもの〉であるためには、〈この蜜蝋〉を存在せしめている〈原因〉があり、この〈原因〉から〈この蜜蝋〉が〈本当に存在するもの〉であることが、理解できるようになっているはずだ。このとき、この〈原因〉も〈この蜜蝋〉も、〈わたし〉のなかに〈観念〉の連鎖として存在すれば十分だと考えることはできないのであって、何か〈本当に存在するもの〉としての〈原因〉から理解できるようになっているはずだ。このような理解に達してはじめて、〈わたし〉のなかにある〈この蜜蝋〉は、〈本当に存在するもの〉ではあるが、〈存在するとおりのもの〉ではなく、ある映像のようなものであることが知られるのである。
 さきに私が、すべてを疑い、それでも〈わたし〉が確かに存在することを知ったのと同じように、〈本当に存在するもの〉が〈現象するとおりのもの〉として〈わたし〉のうちにあるのならば、私自身がその〈観念〉の〈原因〉である。しかし、〈この蜜蝋〉は、〈現象するとおりのもの〉としては〈わたし〉のうちに存在せず、何か私とは別の〈本当に存在するもの〉を〈原因〉としてしか、〈本当に存在するもの〉であることが理解できないとすれば、私自身が〈この蜜蝋〉の〈原因〉ではなく、この〈原因〉であるところの、私とは別の〈本当に存在するもの〉が、確かに存在するということが帰結するのである。

[説明図]

〈わたし〉としての〈このすべて〉は、〈現象するとおりのもの〉で〈本当に存在するもの〉。
この場合は、私自身が〈原因〉である。

〈原因〉……〈観念〉なら、私自身が〈原因〉である。
 ↓
〈観念〉
 ↓
〈現象するとおりのもの〉でない〈観念〉……〈本当に存在するもの〉かどうか不明
 例:〈この蜜蝋〉

〈原因〉……私には〈現象するとおりのもの〉として知られない。
 ↓    私以外のものが〈現象するとおりのもの〉として知る。
〈観念〉  〈本当に存在するもの〉の、私以外の〈原因〉がある。
 ↓
〈現象するとおりのもの〉でない〈観念〉……〈本当に存在するもの〉
 例:〈この蜜蝋〉

3.3 私の精神が、いかに完全な物体の観念を知性の虚構によりつくり上げたとしても、私の精神と物体が存在する原因として、存在そのものがその本質に属するようなあるものの存在を、想定せざるを得ない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

4.精神と身体
4.1 心身問題:この存在するすべてが精神である。そして、身体すなわち延長、形、運動という別のものも存在するならば、身体が精神として現れているという意味で、すべてはまた感覚であるとも言える。(ルネ・デカルト(1596-1650))
4.2 心身問題:我々は身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しない。これが、精神と身体との合一の意味である。しかし、感覚を結果とし、その原因を身体と結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解してはいないのである。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))
4.3 新たに生起することすべては、それが生じる主体に関しては「受動」とよばれ、それを生じさせる主体に関しては「能動」とよばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
4.4 精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
4.5 意志のすべてが精神の能動、あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動とよべる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

4.6 補足説明
 〈このすべて〉Xが、〈わたし〉Xである。
 〈わたし〉Xは、存在する。
 〈わたし〉Xは、〈精神〉Xである。

 〈このすべて〉Xのある部分は、〈精神の受動〉Pと呼ばれる。
 〈精神の受動〉Pは、すべて身体における能動である。
 〈精神の受動〉P以外の〈精神〉Xの部分は、精神自らの動き〈精神の能動〉Aである。
  〈精神の受動〉P ⊆ X
  〈精神の能動〉A ⊆ X
  〈精神の受動〉P ∪ 〈精神の能動〉A = X
  〈精神の受動〉P ∩ 〈精神の能動〉A = φ

 いまここでの身体という概念は、わたしが〈精神の受動〉Pとして知ることの原因として考えられるもので、それの働きが原因となって、〈わたし〉Xにおいて感覚を結果させているものである。そして、〈精神の受動〉Pのすべてが、何らかの身体の能動を原因としているという仮説は、精神と身体が合一しているという仮説の別の表現であり、また精神自らの動き〈精神の能動〉A以外の、およそ精神が受け取るものは、すべて身体を通じてであり、その他の方法を通ずることはないという仮説の、別の表現でもある。
 ところで、意志のすべてが〈精神の能動〉Aであるが、意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚も存在し、これも知覚であるということから、〈精神の受動〉Pの部分である。そこで、これを〈精神の受動(意志)〉と〈精神の受動(意志以外)〉に分けて表現すれば、

 〈このすべて〉Xのある部分は、〈精神の受動(意志以外)〉Pと呼ばれる。
 〈精神の受動(意志以外)〉Pは、すべて身体における能動である。
 〈精神の受動(意志以外)〉P以外の〈精神〉Xの部分は、精神自らの動き〈精神の能動〉Aである。
  ところで実は、〈精神の能動〉A = 〈精神の受動(意志)〉Aであるから、
  〈精神の受動(意志以外)〉P ⊆ X
  〈精神の受動(意志)〉A ⊆ X
  〈精神の受動(意志以外)〉P ∪ 〈精神の受動(意志)〉A = X
  〈精神の受動(意志以外)〉P ∩ 〈精神の受動(意志)〉A = φ

 〈このすべて〉Xが、〈精神の受動〉Xである。
 〈このすべて〉Xは、すべて身体における能動である。
 このように、〈精神〉と身体のもともとの概念は、すべてが〈精神の受動〉であることを含んでいるが、このすべての受動のなかに、確かに〈意志〉の現象が事実として存在している。この事実に基づき、この〈意志〉という現象を概念で表現したものが、〈精神の受動(意志)〉、〈精神の能動〉Aなのである。


5.私(精神)のなかに見出されるもの
5.1 意志のすべてが精神の能動である。
5.1.1 精神そのもののうちに終結する精神の能動
 ・ 意志のひとつとして、精神そのもののうちに終結する精神の能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 認識力は、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけるときは認知と呼ばれ、記憶をもとにした想像力だけに働きかけるときは想起と呼ばれ、新たな形をつくるために想像力に働きかけるときは想像と呼ばれ、独りで働くときは理解(純粋悟性)と呼ばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.1.1.1 「見る」とか「触れる」等の認知とは
 認識力が、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけること。
5.1.1.2 記憶の「想起」とは
 認識力が、記憶をもとにした想像力だけに働きかけること。
5.1.1.3 「想像する」とか「表象する」こととは
 認識力が、新たな形をつくるために想像力に働きかけること。
 (例)存在しない何かを想像する。
 ・ 存在しない何かを想像しようと努める場合、また、可知的なだけで想像不可能なものを考えようと努める場合、こうしたものについての精神の知覚も主として、それらを精神に知覚させる意志による。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 (例)詩人は、精神的なものを形象化するために、想像力を用いる。
 ・ 悟性は精神的なものを形象化するために、風や光などのようなある種の感覚的物体も、用いることができる。これは詩人たちの手法だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.1.1.4 「理解する」こと(純粋悟性)とは
 認識力が、独りで働くこと。
 (例)可知的なだけで想像不可能なものを考える。
 ・ 悟性はいかにして、想像力、感覚、記憶から助けられ、あるいは妨げられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 (例)観念を表現する物自体(モデル)
 (例)捨象、抽象
 (例)物のある省略された形(記号)
 ・ 問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。次に紙の上で、記号をもって解決を見出すことで、当初の問題の解を得る。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 (例)問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。
5.1.2 身体において終結する精神の能動(運動、行動)
 ・ 意志のひとつとして、身体において終結する能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 想像が、多数のさまざまな運動の原因となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2 あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動である。
5.2.1 身体を原因とする知覚
5.2.1.1 外部感覚
 ・ 対象に注意を向けるのは能動であるにしても、外部感覚は精神の受動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.1.2 共通感覚
 ・ ある特定の外部感覚は、その原因となる身体の能動が、より広い範囲の身体に影響を与え、これら身体の能動を精神において受動する共通感覚を生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.1.3 想像力、記憶
 ・ 外部感覚だけでなく、それがより広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚もまた、記憶され、想像力の対象となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.1.4 自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様
 ・ 精神の受動のひとつ、身体ないしその一部に関係づける知覚として、飢え、渇き、その他の自然的欲求、自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.1.5 身体ないしその一部に関係づける知覚としての、飢え、渇き、その他の自然的欲求
5.2.1.6 精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想(広い意味では、情念の一種)
 ・ 精神の受動のひとつ、身体によって起こる知覚として、意志によらない想像がある。夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想も、これである。これらは、飢え、渇き、痛みとは異なり、精神に関連づけられており、これらが情念である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.2 精神を原因とする知覚
 ・ 意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚は、知覚ということからは精神の受動であるが、精神から見れば能動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.2.1 意志についての知覚
5.2.2.2 意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚
5.2.3 精神だけに関係づけられる知覚(情念)
   (身体を原因とする知覚や、精神を原因とする知覚を、原因とする。)
 ・ 精神の受動のひとつ、精神だけに関係づけられる知覚として、喜び、怒り、その他同種の感覚がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 意志の作用によって直接、情念を制御することはできない。持とうと意志する情念に習慣的に結びついているものを表象したり、斥けようと意志する情念と相容れないものを表象することで、間接的に制御することができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 情念はほぼすべて、心臓や血液全体など身体のなんらかの興奮の生起をともなっており、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。これは感覚対象が感覚を現前させつづけるのと同じである。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ ある身体行動とある思考が結びつくと、両者のいずれかが現われれば必ずもう一方も現われるようになる。この結びつきは、各人によって異なり、各人ごとに異なる情念の原因である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 情念は、精神のなかに思考を強化し持続させる作用が効用をもたらし、また時に、それは害を及ぼす。(ルネ・デカルト(1596-1650))





(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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アントワーヌ・アルノー(1612-1694)


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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報

 ご紹介したルネ・デカルト(1596-1650)の基本命題集を、下記に一覧化しておきましょう。

すべての諸学の基礎、その真理性を疑い得ないようなもの(ルネ・デカルト(1596-1650))

1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
1.1 もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、断乎として偽なるものに同意しないように用心することは、私の力のうちにある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
1.2 私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
1.3 哲学者たちは、最も単純で自明的なことを、論理学的な定義によって、説明しようと試みた点で誤りを犯している。(ルネ・デカルト(1596-1650))
1.4 概念をよく区別し、それが属しているものにのみ帰属させること。ある困難な問題を、それに属していない概念によって説明しようとするとき、われわれは必ず間違う。(ルネ・デカルト(1596-1650))
1.5 私は、私の推論の基礎として、何ものもそれ以上に識られているものはありえない程に、私に識られているところの私自身の存在を、使用することを選んだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

2.私は存在する
2.1 疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
2.2 【無意識について】
精神のうちには、精神が意識してはいない多くのものがありうるのではないか。(アントワーヌ・アルノー(1612-1694))
2.3 およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 一見して異なるレベルの概念で説明しているようにも思われるかもしれないが、アルノーの指摘に対して、あえて理解しやすいように解答したものである。上記命題の正確な意味は、精神と身体、受動と能動の概念の理解において、明確となる。また、この命題は「無意識」を使用する哲学的(もしくは科学的)記述に対するひとつの注意である。その議論が、真に科学的なものなのか、曖昧で概略的なおしゃべりなのかを判断するときの、ひとつの拠り所となる命題である。
2.4 この蜜蝋は、いったい何か。これは確かに、ただ単に精神の洞観と言えるようなものとして、明晰かつ判明に現われている。対象として特定し、言葉で捉えられたものには、すでに不完全で不分明なものが混入している。(ルネ・デカルト(1596-1650))
2.5 いま眼の前にあるこの蜜蝋だけでなく、およそすべてのことに対して、それがいっそう判明に認識されれば、それは、私自身が何であるかの認識でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

3.私でないものが、存在する
3.1 私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))
3.2 補足説明
〈このすべて〉Aが、〈わたし〉Aである。
〈わたし〉Aは、存在する。
〈わたし〉Aは、〈精神〉Aである。
〈この蜜蝋〉は〈わたし〉のなかにある〈観念〉であり、〈わたし〉のなかに存在する。〈この蜜蝋〉が〈観念〉としてではなく、〈本当に存在するもの〉であるためには、〈この蜜蝋〉を存在せしめている〈原因〉があり、この〈原因〉から〈この蜜蝋〉が〈本当に存在するもの〉であることが、理解できるようになっているはずだ。このとき、この〈原因〉も〈この蜜蝋〉も、〈わたし〉のなかに〈観念〉の連鎖として存在すれば十分だと考えることはできないのであって、何か〈本当に存在するもの〉としての〈原因〉から理解できるようになっているはずだ。このような理解に達してはじめて、〈わたし〉のなかにある〈この蜜蝋〉は、〈本当に存在するもの〉ではあるが、〈存在するとおりのもの〉ではなく、ある映像のようなものであることが知られるのである。
 さきに私が、すべてを疑い、それでも〈わたし〉が確かに存在することを知ったのと同じように、〈本当に存在するもの〉が〈現象するとおりのもの〉として〈わたし〉のうちにあるのならば、私自身がその〈観念〉の〈原因〉である。しかし、〈この蜜蝋〉は、〈現象するとおりのもの〉としては〈わたし〉のうちに存在せず、何か私とは別の〈本当に存在するもの〉を〈原因〉としてしか、〈本当に存在するもの〉であることが理解できないとすれば、私自身が〈この蜜蝋〉の〈原因〉ではなく、この〈原因〉であるところの、私とは別の〈本当に存在するもの〉が、確かに存在するということが帰結するのである。

[説明図]

〈わたし〉としての〈このすべて〉は、〈現象するとおりのもの〉で〈本当に存在するもの〉。
この場合は、私自身が〈原因〉である。

〈原因〉……〈観念〉なら、私自身が〈原因〉である。
 ↓
〈観念〉
 ↓
〈現象するとおりのもの〉でない〈観念〉……〈本当に存在するもの〉かどうか不明
 例:〈この蜜蝋〉

〈原因〉……私には〈現象するとおりのもの〉として知られない。
 ↓    私以外のものが〈現象するとおりのもの〉として知る。
〈観念〉  〈本当に存在するもの〉の、私以外の〈原因〉がある。
 ↓
〈現象するとおりのもの〉でない〈観念〉……〈本当に存在するもの〉
 例:〈この蜜蝋〉

3.3 私の精神が、いかに完全な物体の観念を知性の虚構によりつくり上げたとしても、私の精神と物体が存在する原因として、存在そのものがその本質に属するようなあるものの存在を、想定せざるを得ない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

4.精神と身体
4.1 心身問題:この存在するすべてが精神である。そして、身体すなわち延長、形、運動という別のものも存在するならば、身体が精神として現れているという意味で、すべてはまた感覚であるとも言える。(ルネ・デカルト(1596-1650))
4.2 心身問題:我々は身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しない。これが、精神と身体との合一の意味である。しかし、感覚を結果とし、その原因を身体と結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解してはいないのである。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))
4.3 新たに生起することすべては、それが生じる主体に関しては「受動」とよばれ、それを生じさせる主体に関しては「能動」とよばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
4.4 精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
4.5 意志のすべてが精神の能動、あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動とよべる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

4.6 補足説明
 〈このすべて〉Xが、〈わたし〉Xである。
 〈わたし〉Xは、存在する。
 〈わたし〉Xは、〈精神〉Xである。

 〈このすべて〉Xのある部分は、〈精神の受動〉Pと呼ばれる。
 〈精神の受動〉Pは、すべて身体における能動である。
 〈精神の受動〉P以外の〈精神〉Xの部分は、精神自らの動き〈精神の能動〉Aである。
  〈精神の受動〉P ⊆ X
  〈精神の能動〉A ⊆ X
  〈精神の受動〉P ∪ 〈精神の能動〉A = X
  〈精神の受動〉P ∩ 〈精神の能動〉A = φ

 いまここでの身体という概念は、わたしが〈精神の受動〉Pとして知ることの原因として考えられるもので、それの働きが原因となって、〈わたし〉Xにおいて感覚を結果させているものである。そして、〈精神の受動〉Pのすべてが、何らかの身体の能動を原因としているという仮説は、精神と身体が合一しているという仮説の別の表現であり、また精神自らの動き〈精神の能動〉A以外の、およそ精神が受け取るものは、すべて身体を通じてであり、その他の方法を通ずることはないという仮説の、別の表現でもある。
 ところで、意志のすべてが〈精神の能動〉Aであるが、意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚も存在し、これも知覚であるということから、〈精神の受動〉Pの部分である。そこで、これを〈精神の受動(意志)〉と〈精神の受動(意志以外)〉に分けて表現すれば、

 〈このすべて〉Xのある部分は、〈精神の受動(意志以外)〉Pと呼ばれる。
 〈精神の受動(意志以外)〉Pは、すべて身体における能動である。
 〈精神の受動(意志以外)〉P以外の〈精神〉Xの部分は、精神自らの動き〈精神の能動〉Aである。
  ところで実は、〈精神の能動〉A = 〈精神の受動(意志)〉Aであるから、
  〈精神の受動(意志以外)〉P ⊆ X
  〈精神の受動(意志)〉A ⊆ X
  〈精神の受動(意志以外)〉P ∪ 〈精神の受動(意志)〉A = X
  〈精神の受動(意志以外)〉P ∩ 〈精神の受動(意志)〉A = φ

 〈このすべて〉Xが、〈精神の受動〉Xである。
 〈このすべて〉Xは、すべて身体における能動である。
 このように、〈精神〉と身体のもともとの概念は、すべてが〈精神の受動〉であることを含んでいるが、このすべての受動のなかに、確かに〈意志〉の現象が事実として存在している。この事実に基づき、この〈意志〉という現象を概念で表現したものが、〈精神の受動(意志)〉、〈精神の能動〉Aなのである。







(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報/ 私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。

 ご紹介したルネ・デカルト(1596-1650)の基本命題集を、下記に一覧化しておきましょう。

すべての諸学の基礎、その真理性を疑い得ないようなもの(ルネ・デカルト(1596-1650))
1 もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、断乎として偽なるものに同意しないように用心することは、私の力のうちにある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 デカルトでいちばん良く知られている「我思う故に我あり」という言葉は、次の命題である。
2 私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 なぜ、この命題がいちばん基礎的な命題なのか。
2.1 哲学者たちは、最も単純で自明的なことを、論理学的な定義によって、説明しようと試みた点で誤りを犯している。(ルネ・デカルト(1596-1650))
2.2 概念をよく区別し、それが属しているものにのみ帰属させること。ある困難な問題を、それに属していない概念によって説明しようとするとき、われわれは必ず間違う。(ルネ・デカルト(1596-1650))
2.3 私は、私の推論の基礎として、何ものもそれ以上に識られているものはありえない程に、私に識られているところの私自身の存在を、使用することを選んだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))
3 疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
3.1 【無意識について】 精神のうちには、精神が意識してはいない多くのものがありうるのではないか。(アントワーヌ・アルノー(1612-1694))
3.2 およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 一見して異なるレベルの概念で説明しているようにも思われるかもしれないが、アルノーの指摘に対して、あえて理解しやすいように解答したものである。上記命題の正確な意味は、精神と身体、受動と能動の概念の理解において、明確となる。また、この命題は「無意識」を使用する哲学的(もしくは科学的)記述に対するひとつの注意である。その議論が、真に科学的なものなのか、曖昧で概略的なおしゃべりなのかを判断するときの、ひとつの拠り所となる命題である。
4 この蜜蝋は、いったい何か。これは確かに、ただ単に精神の洞観と言えるようなものとして、明晰かつ判明に現われている。対象として特定し、言葉で捉えられたものには、すでに不完全で不分明なものが混入している。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5 いま眼の前にあるこの蜜蝋だけでなく、およそすべてのことに対して、それがいっそう判明に認識されれば、それは、私自身が何であるかの認識でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
6 私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))
6.1 補足説明
〈このすべて〉Aが、〈わたし〉Aである。
〈わたし〉Aは、存在する。
〈わたし〉Aは、〈精神〉Aである。
〈この蜜蝋〉は〈わたし〉のなかにある〈観念〉であり、〈わたし〉のなかに存在する。〈この蜜蝋〉が〈観念〉としてではなく、〈本当に存在するもの〉であるためには、〈この蜜蝋〉を存在せしめている〈原因〉があり、この〈原因〉から〈この蜜蝋〉が〈本当に存在するもの〉であることが、理解できるようになっているはずだ。このとき、この〈原因〉も〈この蜜蝋〉も、〈わたし〉のなかに〈観念〉の連鎖として存在すれば十分だと考えることはできないのであって、何か〈本当に存在するもの〉としての〈原因〉から理解できるようになっているはずだ。このような理解に達してはじめて、〈わたし〉のなかにある〈この蜜蝋〉は、〈本当に存在するもの〉ではあるが、〈存在するとおりのもの〉ではなく、ある映像のようなものであることが知られるのである。
 さきに私が、すべてを疑い、それでも〈わたし〉が確かに存在することを知ったのと同じように、〈本当に存在するもの〉が〈現象するとおりのもの〉として〈わたし〉のうちにあるのならば、私自身がその〈観念〉の〈原因〉である。しかし、〈この蜜蝋〉は、〈現象するとおりのもの〉としては〈わたし〉のうちに存在せず、何か私とは別の〈本当に存在するもの〉を〈原因〉としてしか、〈本当に存在するもの〉であることが理解できないとすれば、私自身が〈この蜜蝋〉の〈原因〉ではなく、この〈原因〉であるところの、私とは別の〈本当に存在するもの〉が、確かに存在するということが帰結するのである。

[説明図]

〈わたし〉としての〈このすべて〉は、〈現象するとおりのもの〉で〈本当に存在するもの〉。
この場合は、私自身が〈原因〉である。

〈原因〉……〈観念〉なら、私自身が〈原因〉である。
 ↓
〈観念〉
 ↓
〈現象するとおりのもの〉でない〈観念〉……〈本当に存在するもの〉かどうか不明
 例:〈この蜜蝋〉

〈原因〉……私には〈現象するとおりのもの〉として知られない。
 ↓    私以外のものが〈現象するとおりのもの〉として知る。
〈観念〉  〈本当に存在するもの〉の、私以外の〈原因〉がある。
 ↓
〈現象するとおりのもの〉でない〈観念〉……〈本当に存在するもの〉
 例:〈この蜜蝋〉






(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。

 それがはるか過去に到達されたものであっても、誰によって唱えられたものであっても、真理は普遍的なものであって、時代により異なる光が当てられ、異なる表現が与えられても、同じ真理は確固として、ここに存在する。かつて哲学がめざした総合的な知恵の一部は、細分化された諸学の分野へと分離され、展開せしめられたが、現在なお、総合的な知恵たる真の哲学体系は存在しないように思われる。当哲学講座は、古今東西の主だった先哲の、受け継ぐべき最低限の最良部分の成果物を、一つの総合的な知恵の体系として記述する試みである。まず各先哲の内部体系として記述され、後に総合的な体系のなかで再記述されるだろう。

【およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 意識に現われるすべてのものは、精神の働き、言うなら精神の作用を、意識していると言える。また、すべての作用に対応して、われわれの精神の能力あるいは力能が、存在していると言える。しかし、能力あるいは力能については、言わば潜勢的に存在しており、われわれがある能力を使用しようとする場合に、ただちに、現実的に意識されるようなものなのである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも精神のうちには存在しない。
 「われわれのうちには、われわれのうちにそれがあるのと同じその瞬間にわれわれがそれを意識することがないようないかなる思惟も、ありえないのです。ですから、私は、精神は嬰児の身体に入りこむやすぐさま、思惟しはじめ、と同時に、自らの思惟を自らに意識する、ということを疑いません。そうした思惟の形象[ども]は記憶に刻みつけられることはありませんから、後になってからその事物を精神が、想起することはありませんが、よしそうだとしてもです。しかしながら、銘記すべきは、われわれの精神の働き、言うなら作用をこそ、われわれは常に現実的に意識しているということ、〔しかし〕われわれの精神の能力あるいは力能については、潜勢的にというならばともかく、常に[現実的に意識している]というわけではなく、すなわち、われわれが或る能力を使用しようとする場合には、その能力が精神のうちにあるとするならば、ただちに、われわれはそれを現実的に意識するというようになっているということです。だからこそ、その能力が精神のうちにあることを、われわれは、それについて意識することができないならば、否定することができるのです。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察 第四答弁』デカルト著作集[二]、pp.295-296、[廣田昌義・1993])


デカルト著作集(全4巻)



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 さて、まとめとして、ご紹介したルネ・デカルト(1596-1650)の基本命題集を、下記に一覧化しておきましょう。


すべての諸学の基礎、その真理性を疑い得ないようなもの
1 もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、断乎として偽なるものに同意しないように用心することは、私の力のうちにある。
2 私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。
2.1 哲学者たちは、最も単純で自明的なことを、論理学的な定義によって、説明しようと試みた点で誤りを犯している。
2.2 概念をよく区別し、それが属しているものにのみ帰属させること。ある困難な問題を、それに属していない概念によって説明しようとするとき、われわれは必ず間違う。
2.3 私は、私の推論の基礎として、何ものもそれ以上に識られているものはありえない程に、私に識られているところの私自身の存在を、使用することを選んだ。
3 疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。
3.1 精神のうちには、精神が意識してはいない多くのものがありうるのではないか。(アントワーヌ・アルノー(1612-1694))
3.2 およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))




(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)(6)疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。

 それがはるか過去に到達されたものであっても、誰によって唱えられたものであっても、真理は普遍的なものであって、時代により異なる光が当てられ、異なる表現が与えられても、同じ真理は確固として、ここに存在する。かつて哲学がめざした総合的な知恵の一部は、細分化された諸学の分野へと分離され、展開せしめられたが、現在なお、総合的な知恵たる真の哲学体系は存在しないように思われる。当哲学講座は、古今東西の主だった先哲の、受け継ぐべき最低限の最良部分の成果物を、一つの総合的な知恵の体系として記述する試みである。まず各先哲の内部体系として記述され、後に総合的な体系のなかで再記述されるだろう。

【疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。】
 「しからば私は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいうのか。言うまでもなく、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものである。まことにこれは、もし全部が私に属するならば、僅少ではない、しかしなぜ属してはならないであろうか。いま殆ど一切のものについて疑い、しかしいくらかのものは理解し、この一つのことは真であると肯定し、余のことを否定し、一層多くのことを知ろうと欲求し、欺かれることを欲せず、多くのことを意に反してであれ想像し、なおまたいわば感覚からきた多くのものを認めるものは、私そのものではないのか。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察二、p.43、[三木清・1949])



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 さて、まとめとして、ご紹介したルネ・デカルト(1596-1650)の基本命題集を、下記に一覧化しておきましょう。

すべての諸学の基礎、その真理性を疑い得ないようなもの
1 もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、断乎として偽なるものに同意しないように用心することは、私の力のうちにある。
2 私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。
2.1 哲学者たちは、最も単純で自明的なことを、論理学的な定義によって、説明しようと試みた点で誤りを犯している。
2.2 概念をよく区別し、それが属しているものにのみ帰属させること。ある困難な問題を、それに属していない概念によって説明しようとするとき、われわれは必ず間違う。
2.3 私は、私の推論の基礎として、何ものもそれ以上に識られているものはありえない程に、私に識られているところの私自身の存在を、使用することを選んだ。
3 疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。



(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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